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daisy chain 秘話

 

 


◆まず、daisy chainとは?◆
 1984年5月、イギリスを皮切りに、ヨーロッパ 7カ国でデビューした、英語・日本語・フランス語・スペイン語・ドイツ語で歌うシンガー5人で結成された、インターナショナル・ユニット。
 デビュー作 "No Time to Stop Believing in Love" はイギリスのアイランド・Ze レコードより発売になり、世界初のマルチリンガル・ラップソングとして、ヨーロッパで注目を集めたあとは、翌年、アジア全域でもデビュー。80年代半ばの 日本のディスコでは、当時では超新しい、ラップミュージックが日本語で歌われたことから、要注目のナンバーとなリ、人気を博す。
 その後、アルバム制作、ミュージックビデオの制作が行われたが、プロデューサー間のトラブルで、グループは解散、録音ずみのアルバムも、ミュージックビ デオも、お蔵入りになったままである。(そして、このHPのオーナー、キャズ・カワゾエが、日本語担当のメンバーでした。私はこの daisy chain で、作詞家・歌手としてデビューしたあと、この作品によって、日本のTV番組「欽ちゃんの週間欽曜日」に呼ばれることになり、日本に一時帰国、日本でタレ ント活動をした後、本格的に作詞家・作家活動に移行〜今日に至ります)

◆なぜ、このファンサイトを作ろうと思ったのか・・・◆
 2002年の夏ころだったでしょうか・・・。私の元に一通のメールが届いたのです。
 「デイジーチェインのレコードを探しています」という内容のメールでした。差出人は、元DJの男性で、とても思い出深く、大好きだったデイジーチェイン のレコードを、当時盗まれてしまい、ずっとずっと探し続けていて、やっと、デイジーチェインのメンバーだった私のHPまでたどり着き、「どうしても(レ コードが)欲しい」から、直接私に問い合わせたということでした。
 また同じころに、私の掲示板にも、デイジーチェインのレコードはどうすれば手に入るか?という問い合わせもあり、1984年にイギリス発売、1985年 に日本で発売と、なぁ〜〜んと20年近く昔にたった一枚出したレコードに対しての問い合わせが続けてあったので、ちょっとネットでサーチしてみた ら・・・。

 なんと、私のデビュー曲、デイジーチェインの No Time to Stop Believing in Love が、今ごろになって、また注目を浴びているらしいことを発見。ネットオークションなんかにたまに出ようもんなら、10万円とかの高値がついちゃうんだっ て!!!(@@;)きゃぁ〜〜、何でなの?と思いつつも、嬉しいやら、びっくりするやら、戸惑いまくったのでした。
 その後も、同じような問い合わせがちょくちょく来るようになり、私と同世代、つまり80年代半ば頃にディスコで踊ってた世代だけではなく、現役の高校生 などからもデイジーチェインのことが知りたいというメールなどもいただくようになったので、もう、本当に昔の話なのですが、記憶をたどって、daisy chain 秘話、綴ってみたいと思います。

◆Meet the daisy chain◆
これがメンバーの写真だよん。
左から、Michael Riggins(英語担当)、私 Kaz Kawazoe、Katharina von Hammerstein(ドイツ語担当)、Dominique Macinelli(フランス語担当)、Joe Garcia(スペイン語担当)

 

 

 


【No Time To Stop Believing in Love】日本語歌詞   
                  楽曲 YouTube で発見! 12インチ シングル  リミックス /日本語2番までバージョン

♪ 彼女と私は親友だったの いつでも一緒の Tokyo Girls
   けれども彼が現れてから 2人の間は、核戦争
      彼の 彼女の座を奪うため、親友同士は敵同士
    やっぱりこれは ゆずれやしないわ
       I'm all right. I'm all right

♪(未発表の2番!)
  それから2人は もう大変 彼を自分のモノにしようと
     ありとあらゆる手段を使って 親友のころの 影もない
    平和な日々は 醜く壊れて 大事なものが 見えなくなったわ
        つかれた私は サヨナラ Tokyo
        I'm all right. I'm all right


●No Time to Stop が伝えたかったこと&レコーディング秘話●
 私が No time と出会ったのは、1983年の春ぐらいだったと思う。音楽業界の常識なのだけれども、通常楽曲は、曲が先に出来て、それに作詞家が歌詞を付ける。私に手渡 されたテープも、歌詞の付いていない曲のみのバージョンだった。
 その時は、「歌うだけの予定だった私」は、「一応、こういう歌詞だから」と、日系人の人が書いたと言う、歌詞が書かれた紙をもらった。そうしたら、その 歌詞があまりにひどく(書いた人、誰だか知らないけど、ごめんなさい!)、中学から高校にかけて、自分でギターを片手に作詞作曲をして、学園祭などでコン サートをしていた私が「私が書いちゃ、だめですか?」とプロデューサーに申し出て、OK。かくして、私は当時「世界初」といわれた「日本語ラップ曲」の作 詞をすることになったのでした。
 最初に、英語の歌詞は出来ていて、日本語以外の言語の歌詞(スペイン語、ドイツ語、フランス語)は、基本的に英語版の「訳詞」で、歌っている内容は、 「一生懸命に働いて、やっと成功してイイ生活をしてるのに、そこに第三次世界大戦が始まるってうわさは、どういうことだ? 頑張っているってのに、爆弾を 落とすって? 冗談じゃないぜ、みんな言ってる、大丈夫だって。愛の力を信じるのをやめたらおしまい。今は、愛を信じるのを止める時じゃないよ」てな感 じ。
 当時は、モスクワオリンピックのボイコットなどがあって、世界情勢が不安定と伝えられた時代だったので、「平和をテーマに、核戦争反対を歌う」と言うの が、実は No Time が伝えたかったこと。だから、色々な国の出身者が、それぞれの国の言語で一曲を歌うという形のユニットになったのです。
 ただ、私だけは、同じテーマで独自の詩を書きました。核戦争反対と平和の大切さを、三角関係に置き換えて書いたのです。

 さて、そうして日本語の歌詞は出来たのですが、レコーディングの時に、プロデューサーが、「この歌詞が日本語だって、聞いてるアメリカ人にわかりやすい 単語を入れようよ」と言いだしました。そしてスタッフ一同が「すし」だの「すき焼き」だの、とても歌詞に入れられない日本語の単語を言いだし、「ひ えぇ〜〜」と私が思っているところに、1人が「Tokyo は? 日本の首都、これならわかりやすい」ということで、私は一番の最後を「Tokyo Girls」に変更。
 そしてレコーディングが始まったのですが、本番中、私がアドリブで、2番の最後を「さよなら Tokyo」と、アメリカ人にも浸透している日本語「サヨ ナラ」を入れたら、大受け! ちょっと息が続かなくて、歌の出来としては満足できず、もう一回とりなおして欲しかったのですが、スタッフ大受け、プロ デューサー大喜びで、ワンテイクでの録音となっちゃいました(^^;)
 グループの宣伝用写真(↑に載せてる、白黒のモノ)の撮影の時は、髪の毛伸び放題でぐっちゃぐちゃ、でもちょうど大学の試験期間かなんかで、とても美容 院に行く暇がなく、不本意なヘアスタイルだったし、レコーディングでは納得のいく録音にならなかったし、なかなか、思うようにイカナイもんです(苦笑)
 そのうえ、日本で発売になる予定だった、日本語の歌詞が2番まで入ったフルバージョンは結局発売されることなく、今回ここで私が発表するまで、その存在 すら知られることもありませんでした。(ただし、今の日本には、私から直接テープをもらって、持っている人が何人かいますが)


●daisy chain に入るきっかけ・・・それは、偶然から始まった●
 さて、私がどうやって、daisy chain に入るコトになったのか、遠い記憶をたどってみると、1981年ごろだったでしょうか、ロスアンゼルスで暮らしていた私は(今も、住んでいます が・・・)、モデルにスカウトされ、学生をしながらモデル業を始めました。
 また、音楽好きが高じて、一流大学の理学部の学生をしながら、バンドを作り、ボーカルをしていたりしたのです(ジキルとハイド生活・・・と、友達に言わ れていました<笑)。そして、そういうバンド活動や、モデル業を通じて、一人のコーディネーターと出会ったのです。
 日本語を話す白人の彼、確か、Eric という名前だったと思います。
 その彼が、1983年の春くらいでしょうか、私に、この daisy chain のプロジェクトを持ってきました。「日本語のラップをできる人を探している」って。
 でも、その当時、まだラップはメジャーな音楽じゃなく、ましてや「日本語で」なんて、かつてない試み。私自身「ラップって、何?」と聞いた記憶がありま す。
 でも、この Eric は、「キャズなら出来る」なんて言って、このプロジェクトのプロデューサーと私を会わせたのです。で、すっかりプロデューサーに気に入られた私は、 daisy chain の日本語担当で参加することになりました。  
 最初は、↑に書いたように、「歌う(ラップする)」だけの予定だったのですが、もらった歌詞があまりにひどく、また、私は作詞が出来るということで、私 が「歌詞も担当」することになり、サウンド・トラックの入ったテープを貰い、曲に合わせての作詞をするという、私にとって、記念すべき「作詞家としての、 初仕事」に臨みました。

 そして詞が出来上がり、ある日、我が家に daisy chain のプロデューサー2人が打ち合わせで来ていた時、「スペイン語、フランス語、ドイツ語担当は決まったんだけど、英語のラップをするメンバーが、未定なんだ よね」とか話していたら、当時、私の住むアパートの下の階に住んでいた、私の友だち(今でも、大の仲良しです!)の Michael Riggins が「マーケットに行くけど、なにか、買ってきて欲しいもの、ある〜?」とか言って、訪ねてきたのです。
 この当時、Michael は、クルセーダーズとか、黒人グループに楽曲を提供するミュージシャンで、自分のレコードなども、出している人でした。  たまたま訪ねてきた Michael の、この絶妙なタイミング。私がプロデューサー達にマイケルのレコードを聴かせて、「この人、ミュージシャンで、ラップも出来るよ」の一言で、 Michael の daisy chain 参加が決定したのです。

 そして、メンバー全員が決まり、宣伝用の写真を撮ったり、レコーディングが始まりました。
 当時、MTV が始まり、ミュージック・ビデオたる物が世に広まり始めた頃で、daisy chain も、ロケをして、No Time のビデオ、作ったんですよ! でも、コレは、その後、2人のプロデューサー間のいさかいが原因で、オクラ入り。また、daisy chain として録音したアルバムも、オクラ入りになってしました。
 信じられます? daisy chain のアルバム、作られていたんですよ! 私は今でも、そのデモテープを持っていますが、商品化というか、きちんと世に出て欲しかったものです(涙)。

 1983年の秋頃、レコーディングを終えた No Time は、フランス人のプロデューサー、Philip Rault 氏によって、契約先探しにヨーロッパに持ち込まれ、最終的に、当時のイギリスの Island・Ze レコードとの契約が成立。そして、まず、ヨーロッパでのデビューが決定。1994年5月12日、イギリスを皮切りに、12インチシングルと、EP レコードが発売されました。
 その後、アジア全土でのレコードリリースも決まり、1985年の4月25日には、当時のポリスター・レコードから、コンピュレーション・アルバム、" Fourth & Broadway N.Y. " の中の一曲として、リミックス・バージョンが発表されました。
 そして、この頃、No Time は、東京のディスコを中心に、人気ナンバーとして、リクエスト曲のトップ10に入り、かかる店では、ファンたちが同じ振りをして踊るという現象が起こって いました。

 1985年の4月、もともと、「日本人の女の子で、ロスに住んでいるのに、ヨーロッパで日本語のラップソングでデビューした、面白い子がいる」というこ とで、TBS系のTV番組、欽ちゃんの週刊欽曜日のレギュラーミュージシャンとして呼ばれ、日本に帰っていた私は(そうです、daisy chain のお陰で、日本でTVタレントしたり、作詞家になったのでした〜)、一緒にTV出演していたメンバーに連れられ、daisy chain の曲をいつもかけているという新宿のディスコに行き、曲に合わせて一緒に踊るファンを目の当たりにして、びっくりしたものです。
 また、私はDJボックスに入って、レコードに合わせて、英語のパートと、日本語のパートを歌い、来ていたお客さんに喜ばれ、その後、囲まれて、「この 曲、大好きです!」とか、「どこでレコード、手に入るんですか?」など、質問攻めにあったものです。
 つくづく、No Time の人気というか、沢山の人に愛されていることを、実感した日です。私は当時、このレコードがリリースされなかったアメリカ在住だったので、No Time が、本当にレコード化して売られているのかさえ、わからない状態だったので・・・。

  この次は、デビューから20年経った2004年、No Time が再リリースされることになった話を、書きますね〜
ーー続くーー

ご質問などは、こちらへ・・・talent@kazkawazoe.com