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【真冬日の公園にて】
2007年、新年が明けて十日ほどが過ぎた頃、ロスアンゼルスは記録的な「寒波」に襲われ、まるでロスアンゼルスとは思えないほど「寒い日」が続いてい
た。
そして、どんなに冷むかろうと、風が吹いていようと、雨じゃない限り、2歳の息子を、午後のお昼寝のあとに公園に連れて行くのは私の日課になっており、
その「寒波」の中、私はいつものように、息子がお昼寝から起きた午後4時ごろ、シャキッと冷えた真冬日の夕方、まともに見られないくらい眩しい夕日に照ら
されながら、息子と近所の公園に行った。
小学二年生の7歳の上の子、お姉ちゃんは放課後、お友達の家に遊びに行ったきりで、「一緒に公園に行かない?」と、道すがら携帯で遊び相手の家に電話を
して誘ったのだけれど、もう、母親と弟と一緒に公園で遊ぶより、自分の友達と遊ぶ方が楽しい娘は、あっさり「行かない」とお断り。
今までのロス生活約30年で、「自分の鼻の感覚が無くなるほど、寒かった」記憶などない私が、「こんなの、ロスじゃない〜!」と叫びたくなるほどの低気
温の中、2歳4ヶ月の息子と遊ぶ公園。
私の(下の)子供と同じくらいの年の子供を持つ、私よりも(ずぅ〜〜っと)若いママたちに、良く言われる。
「キャズさん、偉いですよ。本当に、スゴイです。そんなに毎日、私は公園とか、連れて行けないもん・・・」と。でも、ウチの息子は、こうして毎日、犬の
散歩のごとく外に連れ
出さないと、エネルギーが有り余り、夜、寝てくれない。
夜中に、寝ない息子にてこずるか、夕方、どんなに自分が疲れていて嫌でも、公園に連れて行き、身体を動かさせ、疲れさせることで、夜の「ねんねが楽な
る」のを選ぶかという世界なので、私は、息子を連れて、公園に行く。
この日は、本当に寒くて、逆にムキになった(=キレた?<笑)私は、息子に誘われるまま、一緒に走った。いつもなら、息子に「ママ、run(走ろう)」
と言われても、「ママ、やだぁ〜。No, no
running.(走らないよぉ)」とか答えちゃうのだけれど、この日は本当に寒くて、じっとして息子の遊ぶのを見ていられなかったのもあり、一緒に、キ
ラキラのオレンジ色の夕日を浴びながら、鼻を真っ赤にして、息子を追いかけて、走ったのでした。
ひとしきり一緒に走ったり、追っかけっこをし、そろそろ帰る時間となったので、「お姉ちゃんを迎えに行って、帰ろうか?」と言うと、息子は私の元にトコ
トコトコっと走り寄り、私の手を取って、しっかりと握り、駐車場の車を指さし、"Go to the car!(車に行くよ!)"
と叫び、また走り始めた。
疲れてポカポカになった息子の手を握りしめ(と言うか、息子に手を引っぱられ・・・)、呼吸がツライ位のその日の冷たい空気を吸いながら走る私は、そん
な体力的にも、環境的にも過酷な状態にも関わらず、もうお友達といる方が楽しくなってしまった娘のコトを思いながら「いったい、いつまで、この子(息子)
は、こうして私と手をつないで、一緒に走ってくれるかなぁ」などと思ってしまい、急に夕日が眩しくて、目頭が熱くなり、凍えた鼻が痛くなった。
ハァハァと息を上げながら、車に到着した私たち。お姉ちゃん抜きで、ママと二人きり、たくさん遊べた息子は、上機嫌で、彼を車に乗せようとしゃがんだ私
に、「ママ!
Hug!」と言って,飛びついて来た。もうヨレヨレで、その勢いに倒れそうになりながら、私は、真っ赤な鼻で涙目で、きっと顔をクシャクシャにして、笑っ
ていたと思う。
本当に、子供が無条件で甘えてくれる時間は短い。親を思う気持ちに変わりはなくても、その表現方法は、子供の成長とともに変わってくる。
「ママと一緒にいたい」「ママに見ていて欲しい」「ママと一緒に手をつなぎたい」・・・。
そんな風に、ちいちゃい頃はストレートだった愛情表現も、子供の成長とともに移り変わり、い
つまでも目に見えてわかるものでは、なくなってくるだろう。だから、今の息子の気持ちが、果てしなく愛おしく、かけがえがないと思う。
だから私は、今日も、寒くても、疲れていても、46歳でも(!)、2歳の息子を連れて、お昼寝あとの夕方には、公園に行く。
そして、目にする息子の姿の一フレーム、一フレームを、自分の記憶にとどめておきたいと思う。